WEB講座3.不安浄化

不安の検証

浄化編の最後は「不安の領域」だ。不安の領域は、嫌悪感や孤独感と言った感情的なものを無理に抑え込んでしまい、情報的なものに置き換えてしまっている状態の領域だ。一見沢山の知識や論理性のある情報にあふれ何も問題ないように見えるのだが、それは不安な感情を情報で覆い隠している状態の為、その情報が不足すると急激に不安にとらわれてしまう。何か将来への漠然とした不安に覆われており、必要以上に物事に囚われ、執着してしまっている状態。

会社の同僚や、友人達と遊んだり飲みに行ったりするのが好きな人は沢山いるだろう。それでストレスが発散されて、爽やかな気分で翌日を過ごせるならイイ。しかし時には二次会、三次会と、もう延々と飲みたくなる。朝まで飲んで家に帰ると異様に寂しくなってしまう様な事はないだろうか。
例えば、友達と電話で話すと何時間にも及んでしまう。機関銃のように喋っても喋っても話し足りない。
家に帰るとテレビは付けっぱなし。電気を消すと不安で眠れない。その不安をかき消そうと色んな情報に夢中になる。ゲームを始めると幾晩も徹夜になる。
使うかどうかも分からないのに新商品が出る度に欲しくなる。物やお金に必要以上に囚われる。
損はしたくないと本や、インターネットから大量の情報を懸命に得る。知識や拘りはどんどん増えるが心は楽にならない。情報が大量すぎて何が正しくて何が間違っているのかさえわからなくなってくる。
なんとか自分を変えたいと考え色んな習い事を始めるが続かない。自己啓発関連の講座に出ても効果が出ない感じられない。すぐに飽きてしまう。
時には占いや霊能者にハマってしまう。何十万もつぎ込んでしまう。でもその時その時は少し楽になれても、それで人生そのものが大きく変わった事は一度もない。一体自分は何をやってるんだろうと、ふと何だか妙に寂しい気持ちに囚われてしまい、どうしょうもなくなる。これらが不安の領域に偏っている状態だ。

多くの場合は、嫌悪感や孤独感、そしてこの漠然とした不安感が複合した状態のまま生きている。
特にこの不安感は、嫌悪や孤独ほどハッキリしたものではなく、心の隅で常にさざ波のようにざわざわと動いており気持ちを刺激してくる。そんなものを感じる事は誰にでもあるとは思うが、これが気付かない所で色んな物に対する囚われ、執着に繋がり余計な苦しみをさらに生じてしまうのだ。
物質的なもの、ブランド、衝動買い、習いごと、遊び、煙草や酒、一見何も問題の無い様なものも、そこに囚われ過剰に執着すると買っても買っても満足できない、マニアと言えば聞こえはいいが、それで本人が満足する事は永久にない。時には物ではなく特定の人に依存してしまう事もある。依存が執着と化してストーカーの様になってしまう事もある。宗教から抜けれなくなる事もある。これら執着は心の隅にある不安感がその気持ちを刺激してくる事によって囚われる。執着する事で不安感を感じない様にムリをしているだけなのだ。
今の自分が間違っているかもしれないと考えるのが怖くて、何か違和感を感じながらも、その不安を感じない様に懸命に今の自分が正しいと、それを裏付けする情報を常に取り入れ続けているだけかもしれないのだ。
その為に人はなかなか変われない。

嫌悪や孤独の回でピンとこない、でも何か違和感がある。スッキリしない。そんな場合、自分が絶対に正しいと思い込んでいる部分に、意外な原因が隠れているかもしれない。それを自分で否定する事に怖さがあるから、心の隅で不安が波打ってるのかもしれない。

では、前置きはそのぐらいにして、例のごとく以下のスクリプトに挑戦してみよう。


不安要素の検証1

あなたの今欲しいもの書き出してみる。(例:クルマ、恋人等)

書けたら、下の「検証2に進む」をクリック!

≫検証2に進む

≫検証3に進む

 


不安の領域の特徴

情報への執着

先ほどのスクリプトで、欲しいもの、手に入れたいものが、本当に自分にとって必要なものかどうかは疑問だというものもいくつかあっただろう。別にそれが無くても生きていける、困らない、と言ったものは沢山あるはずだ。
じゃあ、なぜそれらが欲しくなるのかは、その裏にある様々な「不安」に原因がある。
不安は、これから何が起こるか分からない為に心が揺れ動いて安定しない落ち着かない状態と言える。
しかし何が起こるわけでも無いのに、必要以上に不安感が沸いてきて、必要以上の行動を取るようになる事がある。最初に書いたような状態がそれだ。何か大量に情報を得る事で不安感を麻痺させようとする状態だ。

「○○を手に入れたい」と感じる時、それさえ手に入れば全ての問題が解決するように感じてしまう。しかし、いざ手に入れて自分のものにしてしまうと、手に入れたという一時的な満足感は得られるが、それで全ての問題が解決したかと考え直すと、あらたに別のものが必要に感じられてきたりする。じゃあ、その別のものを手に入れれば満足できるのかと言うと、またさらに別のものが欲しくなる。これを繰り返し気が付くと家の中は似たようなものだらけ。いつしか「コレクター」になる。いつの間にかコレクションする事自体が目的となる。
それはこの社会においては別に何も悪いことではない。むしろ人からは「すごい」と評価される事もあるだろう。
ただ、問題となるのは、それによって生活や他の面に支障が出てくる場合だ。コレクションするにもお金がかかる、借金してでもそれにこだわる人もいる。それで家族にあきれられて離婚する人もいるかもしれない。過剰になって盗みに走る人もいるかもしれない。物ならまだしも人に囚われてストーカーの様になる人、もうその人がいなくなったら自分は生きていけないと思いこんでしまう人もいるだろう。自分の中の不安の原因が、その相手にあると錯覚している状態だ。
何故そこまで不安に煽られなければならないのか、その不安はどこから生じるのか。
またかと思われるかもしれないが、基本的にこの浄化編のテーマが、そこにあるんだから仕方がない。やはり根本的な原因は幼少期の満たされなかった気持ちに深く関係している事が多い。

この不安の領域は、嫌悪や孤独の領域と重なっているとも言える。嫌悪や孤独の状態まで至らない、あるいは嫌悪や孤独を抑え込んでいる状態が不安の領域とも言える。
ただ、この不安の領域を嫌悪や孤独とは別の領域として区別しているのは、「外的な情報に置き換える」と言う部分が特徴的であり、ちょっと嫌悪や孤独とは区別しないと分かりにくい部分だからだ。

嫌悪は「親に理解されていない」「自分の気持ちを分かってほしい」といった気持ちが嫌悪感となって他人に向けられる。極度になると外に攻撃性が向く状態だ。
孤独は「親に愛されていない」「愛されたい」といった気持ちが孤独感となって、他人への執着、あるいは愛されない事への恐怖からの自殺願望と言った形に向けられる。極度になると内に攻撃性が向く状態だ。
不安の領域は、そこまで感情が明確ではなく漠然としている。幼い頃なんとなく感じていた不安。その不安をかき消すようにゲームやテレビ、ネットなどの情報に夢中になる。色んな情報に感情を預ける事で、その不安を感じない様にしている。攻撃性が出るほどまでには至らない、あるいは攻撃性そのものを抑え込んでる状態だ。

情報は潜在意識と顕在意識との間にどんどん溜まっていく。前回お話ししたいわゆる「情報の壁」が厚く出来上がっていくワケだ。多くの人はこの情報の壁の中で物事を判断する。
何かに迷った時、どう行動するのが正しいのか、間違っているのか。まずは本やテレビ、ネットから情報を得ようとする。それが何とかの教授だとか、どこそこの学者さんだとか、肩書きがあると、そこに囚われ信じてしまう。
しかしそんな偉い学者さんは沢山おり、沢山の情報を得れば得るほど、学者さんによって言う事も違うから余計に分からなくなる。

占いや霊能者に頼る時も、占い師によって言う事が違ったりすると余計に迷う。とりあえず「よく当たる」と噂される人を選ぶ。当たってそれで問題解決すれば、その時はいいが、問題が生じる度に頼らなければならないので、そもそも何故その問題が生じるのかに気付かない限り不安感は消えない。いつの間にか依存状態になってしまう。

心応理学講座

これらはどれも「情報の壁」の中の「情報」に振り回されている状態だ。迷いを情報だけで解決しようとすると、余計に迷いやすい。本当の答えは、その人自身すでに知っている。潜在意識にすでにその答えはあるものだ。

情報の壁に引っかからずに、その深い部分にある答えを自分で感じて引き出せるようになると迷いは生じなくなる。
こう書くと多くの人は「それは何となくわかる」「聞いた事はある」「理屈はわかる」と考える。
しかしそう「頭で考える」事自体が、情報の壁の中で考えている事に気付いていく事が、不安の浄化のまず最初の一歩にもなってくる。

感情が出せなくなる

情報の壁が厚いと、怒りをぶつけたり、寂しくて泣いたり、そんな感情を出すこと自体難しくなってしまう。自分の気持ちがうまく表現できなくなりやすい。
幼い頃、「お行儀が悪い!」とか「男がメソメソ泣くものじゃない!」とか、特に日本は感情を出す事が良くない事的な形で育てられる為に、感情があまり豊かではない。これも「大人げない」とか「男は泣いてはいけない」と言った情報を過信して感情を抑え込んでいる形だ。この感情を抑え込む癖が付いてしまっている為に、ストレスが溜まりやすかったりする。こればっかりは常識的な価値観が根付いてしまっている為に難しいところでもある。
いきなり社長がワンワン泣き出したら社員は不安になるだろう。でも本当は男であろうと社長であろうとワンワン泣いた方がスッキリする。楽になる。かと言って怒りについては、嫌悪でも書いたように、ただ怒るだけでは本当の感情の解放にはつながらない。本当の意味でストレス解消には繋がらない。その裏にあるつらさみじめさ、理解されたいという気持ちを言葉に出来て初めてスッキリする。
海外では感情的にならない日本人が評価される事もあるが、正直個人的には違和感を感じる。かと言ってどこかの国の様に怒りや不満を露わにして騒ぐのも、これまた違和感を感じる。嫌悪や孤独の回でも書いたように、怒りや不満をぶつける事でも我慢する事でも楽にはならない。その裏にある辛さ悲しさの気持ちを素直に言葉にして吐き出す事で初めて楽になる。
日曜日のサザエさんのエンディングを聞くと、何だか寂しくなる、明日からまた学校だ、仕事だと考えると辛くなる。
それは、自分の心の深い部分で波打っている感情が、その不安が、いったい何なのか。それをしっかり言葉にして吐き出す機会がないから、不安でありつづけているだけなのだ。

論理的に考えてしまう

情報の壁が厚くなると、何でも論理的に考えようとする。「情報の壁」に溜まっている情報を元に判断しようとする。
しかし言葉には限界がある。そこに共通の真実を見出そうとする所に無理がある。いくら論争した所で、全ての人間が納得できる様な答えを出す事には無理がある。なぜなら我々が真実と考えるものは、それを真実と判断する基準自体が真実かどうかも、本当の意味で誰にも分からないからだ。
言ってしまえば、どんな理論も定義も、正しいのか間違っているのかと懸命に考える事自体ナンセンスだ。正しいか間違っているかは、それを考える人それぞれが正しいと感じるか間違っていると感じるかであり、わざわざ万人にとっての正解を確定づける事自体、それを表現する言葉自体に限界があるのだから難しい。
もちろんこう書いているこの文章の言葉そのものにも意味はない。ただその言葉からあなた自身が自分の中で何を感じ何に気付くかに意味がある。

何だかこう書いてて私自身何を書いているのかよく分からなくなってきたが、ちなみにここでの記事もあえて出来るだけ理論的に理解できるように書いているつもりではある。
それはこういった記事を一生懸命読んで理解しようとする人ほど、この「情報の壁」の中でぐるぐる論理的に考えようとして迷い込んでしまいやすい。だからその理論的な部分を理論的に崩していくしかないから、イヤイヤしかたなく理論的に書いてるだけだ。
本当は「考えるな!感じろ!」と一言で済ませられるものなら済ませたい所だ。だが、それだけで通じる人なら最初から悩む事もないだろう。

例えば論理的に考えると、こんな間違いも起こしやすい。
「自信が持てない」と言った自分の性格がいやで悩んでる人がいるとする。何故だろうと懸命に心理関係の本を読み、幼少期に原因があるのかもと考える。でも自分の両親は、しっかりしたイイ親だったし、まず親に原因があるとは思えない。親子関係には問題はないはずだと考える。
ただ小さい頃、隣のオジサンが怖い人だったから、その人によく怒られたのが原因じゃないかと。そのオジサンが怖かったから、それで自分は自信が持てなくなったんじゃないかと考える。
多少心理関係の本を読んでる人なら、そんな風に自分で苦しみの原因を想定出来るかもしれない。
しかし、そんな人が実際にヒプノで原因となる場面にさかのぼると、そのオジサンに怒られた事よりも、その頃、母親が仕事でいない事に対する寂しさの方が、実は自信の持てない大きな原因だったと、気付いたりする事が多いのだ。
だから自分の様々な心の引っかかりの原因は、頭で考えても情報で迷わされやすい。
考えるのではなく感じるのだ。隣のオジサンに怒られた場面の事を繰り返し思い出して、その時の自分の気持ちをあらためてよく感じてみる。そうすると「オジサンが怖い」と言う気持より「お母さん助けて!」と言う気持ちの方が大きい事に気付けたりするのだ。

心は理論で作られているわけではない。感じる事そのものが心だと言えばイメージに近いだろう。
なので最終的には自分の苦しみは、自分で感じて、自分で浄化していくしかない。ここで書いてる色んな浄化事例も、その通りにすれば自分もそうなるというものではない。ここで書いている記事はあくまで、その為の起爆剤でありヒントでしかなりえない。
解決方法が外にあると考えてしまう為に、すでに何度もその問題を来世に持ち越してしまっているのだ。
自分の魂を救えるのは自分の魂でしかない。自分の中で何が引っかかっており、何に囚われ何に苦しんでいるのか、それに気付き浄化できるのは自分自身だけだ。自分で感じて自分で気付いて自分で自分を変えていくしかない。

原因が今の状況にあるという錯覚

世の中、自殺する人が非常に増えている。その自殺の原因は様々だ。会社で仕事がうまくいかない、家族とうまくいかない、生活がうまくいかない、逃げ道がもうない。そんなきっかけで自殺を決意する。
あらゆる犯罪もそうだ、カッとなった、許せなかった、失敗した、つい出来心だった。なんらかのきっかけがあって犯罪に走る。警察の調書では、こう言ったきっかけが事件の原因、動機として全ての様に書かれて片付けられる。
しかし実際は、こう言った原因は、本当にただの「きっかけ」に過ぎず、本当の意味での原因ではない。そこに至るまでには、本人にも気づけない潜在的な「不安」が長い時間をかけて積み重なって成り立つ現象と言える。

何故自殺したいのかと聞くと、多くは今の状況が耐えられない、苦しい、と言った答えが返ってくるだろう。
会社が嫌なら辞めればいい、いや今の時代、転職先が見つからない、そんなものは探してみないとわからない、いや絶対に見つからない、もう死ぬしかないと。客観的にそこだけの話を聞いてると、何故そこに囚われるんだろう?と、自らその状況を望んでるとしか思えないぐらい、その部分でぐるぐる回って苦しんでしまっていたりする。
しかし話を深めていくと、ほとんどの人が、子供の頃の親子関係においても苦しんでいる事が見えてくる。その子供の頃の苦しさを、今の現状に無意識に投影してしまい動けなくなっている状態だったりするのだ。
それではいくら今の状況が変わってもまたすぐ苦しくなる。苦しさの原因が今の状況にあるのではなく、過去の自分の気持ちの中にあるのだから、過去の自分の気持ちを解放しないと苦しさは変わらない。

小さい頃から徐々に膨らむフーセンが大きくなりすぎて針に当って弾けてしまう。
多くの人はその「針」が原因だと言う。あるいはその針に耐えられなかったフーセンの強度が原因だと言うだろう。
しかし原因はそこではない、そのフーセンが何故膨らみ続けるのか、何故必要以上に空気が入るのか、何故空気が抜けないのかが問題なのだ。