WEB講座3.不安浄化

不安の克服

不安の断切り方

不安の領域は、ごく普通の領域とも言える。この情報社会そのものが不安の領域とも言えるからだ。なので特に、この領域から離れないと苦しいと言うほどのものでもない。多くの人は苦しい事自体に気付かないまま生活している領域とも言える。ただあえて特に不安をあおられ苦しくなるケースを想定して以下にいくつかだけあげておく。

・執着のエネルギーの影響に注意

特にエネルギー的にも影響を受けやすいのは、デパートの特売、争奪戦など。周りに執着のエネルギーの強い人がいると、こちらもそんなに欲しいものでもないのに、すごく欲しくなってしまう。食欲の強い人と同じテーブルで食べると、こちらも余計についつい食べてしまう。流行りだと、みんなが持ってると聞くと欲しくなる。「期間限定」なんて言われると、ついつい買ってしまう人もいるだろう。今買わないと損をする。不安になる。上手に買い物をして得をしたい。安く値切ると言うのもそうだが、多くの場合「損したくない」「得をしたい」と言う考えに囚われている状態だ。

これは先ほどの話で言えば、深い部分で「自分は満たされていない」と言う潜在的不安が刺激されるからだ。
意外と買っても使わないものもあるはず。別に買わなくても困らないものは沢山あるはずだ。
まぁ、世の中の景気の事を考えれば、別に「買う事を楽しむ」と言う感覚であればイイとは思うが、それで借金をするとか生活に支障が出るような場合は、それが本当に必要なものなのか、あらためて感じてみる余裕が必要だろう。そして何故それが欲しいと感じるのか、自分の中の潜在的不安と向き合ってみるのも大切だ。

・お金をかける分野において縁が深くなる

お金をかけると、そこに潜在意識レベルでの集中が起きる。深く関わりたい分野にお金をかけると縁も深まる。
例えばアロマの仕事に就きたいと思うなら、アロマの勉強には沢山お金をつぎ込んだ方がその分野と自然に縁が深くなる。当たり前と言えば当たり前だが、勉強もお金をかけずに安く済ませようと気持ちにブレーキをかけた場合、やはりその結果にもブレーキがかかる。集中度が違ってくるのだ。
これはちょうど宗教のお布施の原理と同じようなもので、沢山のお金をお布施した方が、そこにより集中が起こる為に色んな効果が大きく出やすい。金額の問題でなく、どれだけそこに集中するかの問題だ。
大金持ちが1万円札を落とす時のつらさより、貧しい人が1万円札を落とす時のつらさの方が大きいのと同じだ。
なので、本当に自分が関わりたい分野ならどんどんお金をかけてもイイだろう。ただ、もし詐欺の様なものに知らず知らずにお金をかけていたら、そう言ったものに余計に縁が深まってしまうだけなので、お金をかける先は注意して選択すべきではある。

・メディア情報に囚われない

特に徹夜でゲームをしてしまうなどと言った場合は気を付けた方がいい。なぜ自分がゲームにハマってしまうのか。面白いと感じる裏には、現実が面白くないと感じている自分がそこにいるとも言える。
そのなぜ現実が面白くないと感じるのかが重要で、多くの場合、小さい頃の満たされなかった思いと、今の現実の満たされない状況に重ねてしまっている為に余計に面白くないと感じてしまっている。
小さい頃、何がどう満たされないと感じていたのか、あらためてノートに箇条書きに書き出してみるだけでもいい、客観的に思い返してみると色々気付く事もあるはずだ。

・親子関係の束縛

一般的に常識的に考えて親子関係は大切だ。これは私も否定はしない。ただこの親子関係が逆に重荷になってしまっている人も沢山いる。
ヒプノのお客さんで、よく耳にするのが「いずれは親の面倒をみなければならないので・・」と言う言葉だ。
「・・なければならない・・」と言ってる時点で、これは本人にとってすでに重荷になっていると言う事だ。親に言われたわけでもないのに、そう考えてしまっている人が沢山いる。
では、果たして親は、自分の子供の重荷になりたいと考えるものだろうか。普通はそんな事はないだろう。
確かに子供に頼りたいと言う親もいる。でもそんな親は話をよく聞くと本当は自分の親に甘えたかった、それが出来なかったから、自分でも気付かないうちに子供に依存してしまっているだけだったりする。これは親自身の中で解決すべき問題であって子供の問題ではない。

これまで何度も繰り返し書いてきているが、この人間社会において生じやすい苦しみと言うもののほとんどの原因が、この親子関係の中で生じやすい。一見関係の無い様な苦しみも何らかの形で繋がってくる。運気の善し悪し、無関係と思えるような事故や事件に巻き込まれる様な出来事も、カルマ的な解釈も含めて遡っていくと、今世あるいは前世においての親子関係の中での愛情に対する囚われの問題に繋がってくる。
おそらくこの人間世界と言うのは、この愛情と言うものを卒業していく事がテーマになっている様に思う。

さて、またしても話がそれたが、「親の面倒をみなければならない」と感じるぐらいなら、私は無理に一緒に暮すべきではないと思う。親を施設に預けると言うぐらいの気持ちの方がいいと思う。
こう書くと冷たく聞こえるが、よく考えてみて欲しい。そもそもなぜ自分の親を施設に預ける事が冷たい様に感じるのか。「親が子供に見放されたと感じる」「親が寂しい思いをする」といった点があるかもしれない。
では何故、施設で暮らす事が「寂しい思い」に繋がるのだろう。そう言った施設なら同じような人も沢山いる。世話に慣れたスタッフもいる。こう書くと「馴染めないかもしれない」「苛められる事もあるかもしれない」「所詮そう言った人達は家族ではない他人だ。家族と一緒に暮らした方がイイに決まっている」と思うかもしれない。

では、何故、他人と家族は区別されるのか。

我々は、何故か家族と他人を区別する。人の愛し方に差を作ってしまう。
もし他人であっても家族の様に愛せる人達と一緒だったら寂しいと思う事もないだろう。
しかし現実は、人類の全ての人と言ってもいいぐらい一人一人が心の深い部分に闇を抱えており、その闇が外にあるものと錯覚してしまう為に、他人を他人と区別してしまう。他国を他国と区別してしまう。家族であっても完全に心がうち解ける事も出来ない。
その自分で作り上げた壁に沢山の苦しみが生じてくる。だから仲間意識が強く家族を大切にすると言う価値観が生まれる。でも本当の理想は他人や家族といった区別が無くなることではないだろうか。

まぁ、そんな綺麗事を言った所で、いきなりそう簡単に世界は変われない。今の人間の精神性はまだまだ未熟だ。だからそんな状態で何も無理をする必要はない。
親を重荷だと感じるぐらいなら距離を置いた方がイイ。世の中、核家族がいけない様な風潮もあるが、私はそうは思わない。そこまで今の人間は成熟していない。親と一緒に居て本当に楽なら一緒にいた方がいいが、苦しく感じるぐらいなら一緒に居ない方が互いの為になる。

まずは距離を置いて、そして何故一緒に居て苦しいと感じるのか、自分と向き合っていく事の方が先だ。そうやって自分が楽になれると、あらてめて心から「親の面倒を私がみたい」と感じられた時、その時は一緒に暮らせばいいだろう。
自分の気持ちが楽になると、親の存在も客観的に感じられるようになる。許せなかった事が自然と許せるようになる。
それが親にとっての幸せにも繋がる。

不安の浄化を促進する

・感情の解放について

嫌悪、孤独では「気持ちの言語化」が大切だと繰り返した。エリアシフトワークでは、スピ系視点も兼ねてのカウンセリングが中心になる。自分の引っかかりと思える部分に焦点を当てて深めていく。しかしWEB版ではそれは無理なので、ここであらためて「気持ちの言語化」のコツ、感情の解放の仕方を書いてみようと思う。

【主な感情の言葉】

潜在意識を浄化させ、意識をシフトさせていくには、感情の言語化(吐きだし)が大切になってくる。しかし、ここで気を付けなければならないのは、世間一般的に言われる「感情」と言うのは、本当の意味での気持ちの言葉でないものも含まれている。ここではちょっと中国で言われる喜怒哀楽、「五情」と言うものを持ってくる。
中国の「五情」では、喜、怒、哀、楽に「怨」が加わっての五つ。これらを気持ちの言葉にあらためて置き換えていくと以下の様になる。

~中国の五情~

  • 喜:楽しい、嬉しい、(面白い)
  • 怒:むかつく、腹が立つ
  • 哀:悲しい、寂しい(いとおしい、恥かしい)
  • 楽:心地いい、気持ちいい
  • 怨:恨めしい、憎い、(悔しい)

さて、この5つの中で、ちょっと他の感情とは種類が違うものと感じられる感情がある。それは「怒」と「怨」だ。
それぞれの感情の時に感じてみるとわかるが、喜、哀、楽は、確かに「自分の気持ち」を表している感じはするが、「怒」や「怨」は、自分の気持ちと言うより「特定の人に向けた気持ち」と言う感じがしないだろうか。
それぞれに「あの人が」と付けてみるとわかると思う。普通「あの人が」と付けると自分の気持ちではなくなるが、「怒」と「怨」だけ自分の気持ちのままだ。
「あの人が楽しい」「あの人が悲しい」「あの人が気持ちいい」・・あの人の気持ちを指している意味になる。
なのに「あの人がむかつく」「あの人が恨めしい」・・あの人の気持ちではなく自分の気持ちの言葉の様になってしまう。ちょっと他とは種類が違うと言う事がわかるだろうか。
何が言いたいのかと言うと「怒」と「怨」だけ、自分の気持ちの言葉と言うより「他人に向けた気持ち」と言う事だ。
これは誰か特定の相手がいないと成り立ちにくい。逆に言えば自分の本当の気持ちからずれてしまっている。

特定の人が憎い、ムカつく、恨めしい時、よく感じてみて欲しい。そのムカつく、腹が立つ、恨めしい気持ちの裏には、必ず「つらさ」「悲しさ」「みじめさ」があるはずだ。それを自分で認める事が、余計につらくなりそうだから、相手に対して腹を立てているのだ。
しかしこの場合、相手が謝ってくるとか、相手が自分に対して何か行動を起こしてくれないと、こちらの気持ちは、なかなかおさまらないものだ。「ムカつく」と繰り返し口にしてもスッキリせず、ことあるごとに思い出してしまって、またムカついてしまう事もあるだろう。
その「ムカつく気持ち」の裏にある「つらさ」「みじめさ」を言葉に出来て初めて楽になれるのだ。

「上司に怒られてムカついた」と友人に愚痴っても、あんまり楽にはならない。そこで友人と一緒に陰口大会になっても余計な罪悪感が伴ってスッキリしない。
「上司に怒られて、みじめだった、つらかった」と吐き出すように言葉にして、それを「つらかったんだね」と素直に受け止めてくれる友人に聞いてもらえると、一番楽になりやすい。そういう友人が思い当たらなかったら、日記や紙に書き出してもいい。
感情の解放は、本当の気持ちが言葉に出来て初めて楽になる。そこにプライドが残っていたり、みじめな気持になるのが怖くて抵抗を感じたままではスッキリしない。
そうやって言葉にしていく中で、同時に何故自分が、「上司に怒られた」と言う部分に囚われてしまうのかという点に、さらに自分で向き合っていけると、さらに浄化が起こりやすくなる。この辺りは嫌悪の浄化でも「問題を相手に預ける」と言う部分でも同じことを書いたが、これが理屈でわかっていてもなかなか出来ない人も多いので、改めて書いた。

 

・会話の中に感情を含める

心応理学講座

感情の言葉を、普段から意識できると一番いい。普段我々の会話は、そのほとんどが「情報の交換」に過ぎない。
「どこそこのラーメンはうまかった」「この間のテレビはどうだった」と言った情報の交換だ。
わざわざ「今日は君と仕事が出来てうれしい。幸せな気分だ。最近一人で出張が多かったから、何だか寂しかったんだ。」と恋人同士ならともかく、男同士の会話で、そこまで自分の気持ちを素直に話してくれる人はなかなかいない。逆にいたら「ご、ごめん、そういう趣味はないんだ」と答えてしまいそうだ。でも、本当は、そのくらい普段から自然に気持ちを言葉に出来るとストレスは溜まりにくくなる。
例えば、そこまでいかなくても「ありがとう、楽しかったよ。また話したいね。」と気持ちを表す言葉を少し意識するだけでも、相手との信頼感は変わってくる。
そうやって周りの人間関係の中で気持ちを表現できるようになっていくと、周囲との縁も自然とシフトしやすくなる。

・過去の気持ちを思い起こしてみる

これまでに何度も子供の頃にその苦しみの原因が生じやすいと、親子関係の中に生じやすいと書いてきた。
過去は分析するのではなく、気になる過去の場面を思い返して、当時の自分の気持ちを感じてみて欲しい。
その時、嬉しかったのか、悲しかったのか、寂しかったのか、じっくり感じてみる。またその場面の中に、登場人物がいたら、特に親がいた場合は、その親に対する気持ちと一緒に、その時の親がどういう気持ちだったのかも想像して感じてみて欲しい。

よくよく思い出すと色んな事に気付く。例えば自分の中で母親と遊園地へ遊びに行った楽しい思い出があると、でも何故か楽しい思い出のはずが、自分の中でそれを思い返すと妙に寂しい気持ちになる。あらためてじっくり思い出す。確かにその場面で自分は遊園地で楽しそうにはしゃいでいた。でも妙に場面がモノクロで寂しい感じがする。じゃあその時の母親はどんな気持ちだったのだろうと感じてみる。
そこで初めて気付く。そう言えばこの時、母親は父親とちょっとした口喧嘩をして、それで母親が自分を連れて遊びに出た時の場面だと。この場面に父親がいない。父親は仕事してたのだと気付く。
つまりこの場面で寂しく感じていたのは自分ではなく母親だったのだと。母親のちょっとした寂しい気持ちが、子供の自分にとってはとても大きな寂しさに感じられてのしかかっていた事に気付けたりするのだ。
だから楽しいはずの遊園地での思い出が自分の中では妙に寂しく感じられたんだなと。
だから大人になっても遊園地に行った時、妙に寂しくなるんだなと気付ける。
そう認識していける様になると、あらためて遊園地も心から楽しめるようになるかもしれない。
大人にとっては何気ない瞬間も子供にとっては大きく潜在意識に刻まれたりするのだ。こんな感じで自分の中で引っかかる思い出を思い返してその時の気持ちを感じる。出来れば気持ちを紙に書き出すとか、人に聞いてもらうなどするといい。
ちなみに人に聞いてもらう事は、先ほど聞く側も重くなるという話を書いた。これを考えると吐き出せなくなるので、一つは、お互いにそういう話をして吐き出す。それがやりにくい場合は紙に書き起こしていくしかないが、上記の様に自分の頭の中で、思い起こして、自分の幼い頃の気持ちを客観的に感じ直すだけでも色々な事に気付けるかもしれない。

【次回予告!】

浄化編はここまでになる。この世においての多くの苦しみが、幼い頃の満たされない思いに原因があり、それが時として嫌悪感、あるいは孤独感、あるいは情報社会によって分かりにくくなって、漠然とした不安に置き換えられて苦しむ。
この苦しみは言い方を変えれば「囚われ」と言える。自分に対する囚われだ。自分が大切だから、守りたいから、愛されたいと願う。そこから愛されなくなる事を恐れるようになり、その不安をぬぐい去ろうとして時には互いを傷つけるようになり、余計に苦しむようになる。
浄化編では、この自分の中の囚われと向き合い消化する事を目的としている。自分のあらゆる囚われの原因要素が理解できるようになるだけでも、それに対する囚われは薄れる。囚われが薄れると、本当の意味で他を愛する余裕が出来るようになる。それは相手に囚われる愛情ではなく、相手を受け入れる愛に変化するので、苦しみは小さくなる。
そんな気持ちに余裕のある人が増えると、きっとこの人間世界も、もっとシフトする。

次の理解編では、スピリチュアルな話が中心になってくる。この浄化編を理解した上で、スピリチュアル的な事にあらためて向き合うと、それらの現象の多くが、心の状態と深く関わっている事に気付かされる。自分の心をコントロールする事でスピリチュアル的な事象をも安全にコントロール出来る事が理解できる様になる。
さらに輪廻や死後を理解してもらい、人として生き方の次に、魂としての自分の在り方について深めていってもらう形になる。

そんな訳で、ここから先はあやしひ話が中心になってくるので、そう言った話に抵抗がある人は、浄化編のみで終った方が健全のままで終われるだろう。
健全で無くてもイイ人は、次回をお楽しみに。

ただ、物事を現実的に考える事も、スピリチュアルを理論的に考えようとする事も、情報の壁の中で考えている事には変わりがない。それがイイか悪いかは別問題で、そこに囚われすぎる事で、わざわざ苦しまない事だ。
頭で考える事よりも、心で感じていく事で、物事を見極められる様になると、とても気持ちが楽になる。

心応理学講座