6.色海昇華

タグ: 天使や神々への祈り方

※初めての方はトリップする前に「れんねメモとは」をご覧ください。

神社に参る時、パンパンと手を叩いてお願いする。
どうでもイイ事なのだが、私はこの「パンパン」と音を立てるのが下手で、いつも「ぱすっぱすっ」と音が出ない。別にイイやと思いながら気にはしないものの、やはり「パンパン」と大きく音を鳴らせる人を見ると羨ましい。 いや、たぶん練習すればすぐに出来る事なんだろうけど、面倒くさくてしないだけなのだが‥。
そんな中、最近ちょっと気付いた事がある。 この「パンパン」と手を叩くのは、そこの神様を呼び出すために叩くのだが、本当に手を叩くと神様が呼ばれて来てくれるのか?

これから話す事は、あくまで私が個人的に感じた事だ。 それが本当かどうかなんて証明できないし証明する意味もない。
そもそも神様が実在するかどうかを証明する事は、我々に心があるかどうかを物理的に証明しようとするようなものだ。 つまりどちらもただの「概念」とも言える。

例えば我々は、自分には「心」があるとお互いに理解できる。それが人間同士で共通認識できるから、我々は「心」というものを一つの「概念」として理解しているに過ぎない。
魂や精霊や神と言った存在は、感じる人と感じない人がいるために共通認識が出来ない。ゆえに常識的概念として成り立たないだけだ。
物理的に証明できないからではない。物理的に証明出来ないから存在しないと言うのであれば、「心」も物理的に証明出来ないのだから存在しないと言う事になる。

そう言う意味で魂や精霊や神と言った存在は、信じる人や感じる人達にとってだけの「概念」とも言える。 「概念」をわざわざ「物理現象」として「存在する」とか「しない」とか、無理に解釈しようとするからおかしな話になる。
そんな「概念」だからこそ、物理的に実在を証明できなくても、多くの人は初詣に行ったり、お墓に参ったりするとも言えるだろう。

話を戻そう。そういう意味で私が感じるものも、私の中の一つのただの概念、イメージであると言うことを最初に言っておく。 これぐらい最初に書いておかないと、今回はかなりスピリチュアル寄りな話になるので、いちいちどうでもいいような所にひっかからないように、念を押しておいた。
大事なのは高次の存在と言う概念を、どういう気持ちで解釈すれば、一番自分の心が軽くなりやすいかと言う話になる。

神仏への祈り方

友達と神社にお参りに行った時、何気に横で見てたら、友達が「パンパン」と手を叩くと同時に、その神社の上の方からスーッと光が下りてきて、友達と繋がるのがわかった。

その友達は元々神主さんでもあった人なので、二礼二拍手一礼をキチッとして、手を叩くのも「パンパン」と、とても綺麗ないい音を出す。その時は、ああやっぱり儀式的にキッチリとやれば繋がるのかなと思った。

しかし、どーもそうとは限らなかった。

同じ神社に一人で行く別の機会があった。マイナーな神社なので、その時も他に人がいなかったので、お参りの後ちょっと近くのベンチに座って、神社を眺めながらくつろいでいた。

そこに一人の男性が来た。 カメラを持っていたので観光に来た人だろうと思った。私自身「ぱすっぱすっ」な人なので、この人は「パンパン」と音の出せる人なのかなと、ついその人のお参りの様子を興味本位で見続けてしまった。

その男性は、キチッと二礼二拍手一礼をした。やはり「パンパン」とすごくいい音をさせていた。 ああキッチリした人だ。すごいなーと感心していたのだが‥。

??何故か、その人が手を合わせている間、例の光が降りて来て、その人に繋がると言う気配が全く感じられなかった。

何故?と思ったが、すぐに分かった。

この男性は私に見られている事に気付いて、神様の事ではなく私の前で二礼二拍手一礼がキッチリとカッコよく出来る事の方に集中していたのだ。

私が横で見ていたばっかりに‥私が見ていなければ、祈りの方に集中できて、ちゃんと繋がったかもしれないのに、ちょっと申し訳ないと思った^^;

また別の機会に、別の友達と神社仏閣を回る事があった時、二礼二拍手一礼になっていなくても、手を合わせた瞬間、すごい勢いでそこの神様と光で繋がる友人もいた。別に霊感があるとかそういう友人ではない。

あとから本人に聞いたら、親が入院中で親の事を本気でお願いしたと言っていた。

つまり神仏に祈る時は、儀式的な事は大して重要ではない。 一番大切なのは「気持ち」と言う事だ。

どれだけそこに神様がいると信じて、本気で願えるかによって違ってくると言えるだろう。 だから私みたいに「ぱすっぱすっ」な人であっても気にする事はない。 本気で「○○なりますように」とお願いできると、ちゃんとそこの神さんと光で繋がれるのだ。

では、なぜ我々の気持ち次第で、繋がったり繋がらなかったりするのか。それは最初に書いたとおり、我々自身の概念に過ぎないから‥。

と‥書いてしまったら、ここまで書いてきた事が全くロマンもありがたみも無くなってしまうので、概念ではあったとしても、もう少し余韻の残る面白味のある概念として認識してもらえるよう話を深めたいと思う。

そもそも神様とは、いったいどういう存在なのか。 神様からは我々はどのように見えているのかの話になる。

神仏の世界

ヒプノを受けられるお客さんの中で、前世ではなく生まれる前の記憶を鮮明に思い出す人も時々いる。 そこで天使や神々と言った存在に出会った時の事を思い出す人もいる。
中には自分自身が天使であったり、神さんであったりした記憶を思い出す人もいる。祠で祀られてるような記憶を思い出す人もいた。天使として人間界を覗いて縁を操作してた記憶を思い出す人もいた。

本当に?と思う様な話は沢山あった。でもそれらが本当かどうかなんて証明は出来ない。ただ言えるのは天使や神々と言った概念で解釈できる情報が潜在意識から出てきたと言う事だけだ。

それらの共通項から、天使や神々がどう言った存在なのか、大凡の概念がさらに絞り込めるようになる。あくまで仮の概念ではあるが、祈る対象も元々概念なのだからイメージしやすくなる分にはいいだろう。

お客さんの話は本人の了解が必要だし、ここでは申し訳ないが私自身の話を少し書いておこうと思う。 私自身は自分でヒプノを使って前世を確かめる事もあれば、自然に思い出す事も夢に出て来る事もある。

そんな私が去年、変な夢を見た。

全く何もない真っ白な世界に私は一人立っていた。 私は白い布のような着物、左手に修行僧が持つ杖のようなもの、右手に宝珠のようなものを持っていて、ただジッと立っているのだ。

ここで、これが「夢だ」と夢の中で気付く。

しかしどーもこのリアル感が、ただの夢ではなく別の次元にいるのか、いや、これは前世の記憶ではないかと思えてきた。

近くには水たまりのような部分があった。よく見るとそこに巨大な蓮の花がいくつか咲いていた。直径2m近くあったんじゃないだろうか。 ちょうど人間がそこに座ると仏さんぽくなる様なそんな大きな蓮の花が、様々な綺麗な色で光っているのだ。 それ以外は地面も空も何もなく、ただひたすら真っ白な世界と言う感じだった。

この辺りで大分意識が鮮明になってきて目を覚ましそうだったが、そのまま自分でヒプノに切り替えて色々確かめていく事にした。

まずあらためて自分が何者なのか集中してみた。 多分、持ってる物とか姿から、なんたら観音さんとか、うんたら菩薩さんと言った存在ではないかと思えてきた。

菩薩さんと言った神様は、比較的人間界に近い天界の存在で、生前修行などしていた人が、比較的到達しやすい領域の神さんだ。 だからわずかながらも人間的な感情が残っている菩薩さんもいて、人間の願い事を受け入れやすいと同時に、祟りや天罰を与えるような神様もいる。

そこよりもっと高次元になると人間的要素が無くなっていくので、個人的な願い事は受け入れてもらいにくいと同時に祟りや天罰を与えるような神さんもいなくなる。

お客さんの中にも、こう言った菩薩さんや天使レベルの記憶を思い出す人はいたので、そう特別珍しい事ではない。 それを踏まえ頂いた上で、話を続けよう。

私は自分の気持ちに意識を集中してみた。しかし気持ちは全く感じられない。感情が動かずただ無心にそこにいると言う感じ。 うれしくもつらくも何もなく何も感じない。ただずーっとそこにいるって感じだった。
無心と言うか、意識が停止しているような感じだ。

これって多分、ずーっと永遠にこの状態なのでは?と思った。

ちょっと前世の記憶としては、天界での記憶と同様、人間的な感覚で見ると退屈な記憶になりそうだなと思った。

でも一応と思い、この前世においての「何かが起こっている重要な場面へ」と自分を誘導してみた。 するとちょっと変化が起こった。

何もない誰もいない真っ白な世界のはずなのに、そこに人影が現れた。

ボロボロの服を着た日本の江戸時代風の着物を着た20~30代ぐらいの生きてる人間の女性だ。 とても弱っている様子で、赤ちゃんを抱えていた。 その女性が私の前にすーっと近寄ってきて、何か手を合わせて私にお願いしているのだ。

おそらくお金も食べるものも無くて、それでも何とか子供だけは助けたい一心で、お願いしている様子だった。すると私の体からスーッと光が伸びて、その人と繋がるのが分かった。その女性は祈り終えると、またすーっと白い世界に消えていった。

これってもしかして地上で、神社かどこかにお参りに来た人の意識が、この白い世界にまで届いてきてると言う事だろうか。 興味深く思えた。

一瞬ではあるが、この女性がお参りに来た瞬間、自分の心が少し動く感じがあった。 この女性に力を貸そうとほんのわずか意識が動くような感じだ。

他にもこういう事があるのかと思い、この場面からその前後をさらに色々探ってみた。
するとどーもこうして誰かがお参りに来ると、私の意識がほんの少し動く。そしてお願いされるとそれに答えるようにエネルギーを送ると言う事を繰り返しているようだった。

何をお願いされてるのかはよくわからない。 他の菩薩さんとかは違うのかもしれないが、私の場合は「何を願われているのかは、よくわからないけど‥とりあえずエネルギー送っとこ」って感じでやってたみたい^^;

それでもホントそんな感じでほんの少し意識が動くだけではあるんだけども、この真っ白な世界の中では、やはり重要な事と言うか、それ以外は本当に何にも起こらない世界と言うことなのだろう。

お参りに来る人は子供から着物の女性、職人のような男性など様々だった。
でもみんな江戸時代のような昔の姿で、ボロボロの服の人が多かったので、何か災害の前後の時代なのか、私が何か貧しい地域に祀られていたと言うことなのか。

特にそれらの人々に対して何か感じたりすることもなく、基本的に単にそれらを見てるだけって感じだ。 ただ先ほどの女性のような、本当に必死でお願いに来るような人の記憶は、やっぱりそれなりに他の人よりもやや強く印象が残るようだった。

もう一人印象に残っているのは、やはりボロボロの服を着ていて、まだヨチヨチ歩きの小さな子供なのに、人間にしてはやたら精神性が高い男の子が来た。

おそらくこの男の子は、将来日本の歴史上の誰か重要な人物になる運命の人だと分かって、私の方がちょっと嬉しく感じてるような場面だ。 この利他的な高貴な魂は、きっと他の多くの人々の魂を救ってくれると期待しているような感じだった。

たぶん江戸時代辺りで、農民の出で出世していくような誰かだと思うが、そう言う輝きの違う人間は、神様の世界から見ても分かるようだ。

最後、私が亡くなる場面に移動してみた。

元から生きてるわけではないので、亡くなると言うより、また違う次元に移動するような感じだった。

この記憶が出てから気付いたのは、どーも神様の世界から特定の人間に意識を向けて、エネルギーを送る事は難しく、逆に人間側が特定の神様に意識を向けて、本気で祈りを捧げると、比較的その神様も繋がりやすくなり、力を貸しやすくなるらしいと言うこと。

そしてもう一つ、祈り方が正しいとか間違ってるとかは、天界の存在達にとっては関係のない事。というか分からない事のようだ。

例えば、賽銭が多いとか少ないとかも神様には分からない。 ただ、祈る側の人が賽銭するのは「もったいないから」と言う気持ちがそこにあり、賽銭せずに手を合わせる事に「罪悪感」があったら、おそらくその罪悪感の方が強く通じてしまい、神様は願いをかなえるためではなく、まずその罪悪感を和らげるためのエネルギーを送るだけになってしまうだろう。

これでは何のために手を合わせているのかわからない。 いや、それ以前に「罪悪感」があると、自ら祈りを捧げる気持ちにブレーキがかかって、全く届かないかもしれない。

誰かが傷つく事をお願いするのも、意識上には無くとも潜在意識には必ずと言ってイイほど「罪悪感」が生じてしまう。 この「罪悪感」が大きいと、高次元と繋がりにくくなる。こう言った場合はどうすればいいのか。

先にその事について懺悔すればいい。

こんな悪い自分では、きっと神様も見捨てるだろう‥と感じるなら、まずその事について懺悔することだ。 実際には神様が見捨てるのではなく、そう言った罪悪感を抱えたままの人が自ら心を閉ざすから繋がりにくくなるだけの話なのだ。

神様が人間を裁くのでなく、人間の神々に対する概念を元に、我々が自ら自分を「罪悪感」によって裁いているに過ぎない。

どう懺悔すればいいのか分からなければ、ひたすら「ごめんなさい」を繰り返し唱えるだけでもイイ。 そして心が少し軽くなった感じが得られてから、あらためて神様にお願いしてみると、そのお願いのしやすさに違いがある事に気付くだろう。

天使への祈り方

天使と言う存在も比較的、人間界に近く繋がりやすい。 天使は人間の感情をイイ方向に高めるような形で力を貸してくれる感じがある。

例えば、何かイイ事があって、うれしくて誰かに感謝したい時なんかに、天使に対して「ありがとう」と感謝を伝えてみるとイイ。 そう言ううれしい感情の時に天使は繋がりやすいようで、何らかの祝福のサインをもらえるだろう。

天使は楽しい事と言うか、人間のワクワクした気持ちやうれしい気持ち、やさしい気持ちに繋がりやすい感じだ。 神仏に比べて比較的気さくな感じで、具体的な人間関係や恋愛についても力を貸してくれやすい。

ここでちょっと覚えておいてもらいたい事がある。 それは他の神々に対してもそうだが、天使のサインなどを基準にして物事を判断してしまわない事だ。

決してそれが「正しい事」「間違っている事」を高次元の存在が「判断」してサインを送ってくる事は無いからだ。 なぜなら「正しい」も「間違い」も我々人間にとっての概念に過ぎない。 天使や神々のいる高次の次元においても、それが人間界と同様に「正しい」であったり「間違い」であったりするとは限らないからだ。

人によってはそう言ったものを感じやすい人ほど、これは神様が「進め」と言ってるんだ!と、解釈して物事を決めてしまう事がある。 私自身も今までよくそんな風に解釈して進めてきて正解だったと感じる事は沢山あった。

しかし、先ほどの天界の記憶からもちょっと色々分かってきた事なのだが、どーも高次元の存在達は、人間が「正しい行動」「間違っている行動」に対して、なんらかの判断をしてサインを送って来てるわけではないようだ。

ただ単にその時の人間側の気持ち、感情、その感覚的な状態を感じて、それに応じてエネルギーを送って来ている。 つまり人間が悪い事をしようとする時「罪悪感」が生じ、それに対して天使達が「そんなマイナスの心の状態で大丈夫なの?」と言う反応を示す。 逆に良い方に進む時「充実感」が湧いていて、それに対して天使達も祝福してくれる。そんな感じのようなのだ。

その時その時の人間の感情に対して反応してるのであって、どーもその人の人生そのものを見据えて反応しているわけではないようだ。
なのでその方向に進むべきかどうかと言った問題に直面した時、結論はあくまで自分で決める事であり、それに正しいも間違いもないと考えた方がいい。
何事もそこに透明感があり充実感が伴う事なら進みやすくなるし、罪悪感や望まない感を伴う様な事なら進みにくくなる。それだけの事だ。

必要以上に天使や神々に依存してしまうと、その結果失敗した時に、天使や神々のせいにしてしまうだろう。
あの時、天使が二人を祝福してくれていたのに、なんで浮気されるの!なんでビンボーになっちゃたの!と言った所で天使達を責めないでほしい。
さすがに天使達も特定の人間の心をコントロールするような権利までは持ってはいない。
二人の気持ちが暖かくなった時、それを祝福しているのであって、特定の未来を約束しているわけではないのだ。

天使達は、たいがい何を聞いてもニコニコしながら「大丈夫」としか言ってくれない。指示してこない。ただ祝福のエネルギーを送ってくれるので、それを受け取って、ちょっと暖かい気持ちになる。そんな感じの存在だ。

そして最終的な結論を出すのは、やはり自分でしかないのだ。 自分が納得できる方向なら、そこに充実感やわくわく感が生じるし、その気持ちに対して祝福される分には、気持ちも明るくなるし天使と繋がるのも大いにイイ事だ。

あと、もっと人間に近い領域の存在‥。 ご先祖様とか守護霊と言った存在は、比較的人間臭く、ちょっとした自己中心的なお願い事も力を貸してくれるかもしれない。 特にご先祖さんは、自分の子孫や家系の利益になる事には力を貸してくれやすいだろう。

逆に人間に対して「ああしなさい」「こっちに進みなさい」とやたら強制的、指示的な存在もいる。 こう言った指示的な存在の多くは低級霊が高次の存在に化けているだけなので、気を付けなければならない。ついこんな感じで断言されると頼りたくなるのが人間だ。そこを利用して心をコントロールしてくるのは低級霊に限られる。これについてはエリアシフトの4以降で詳しく説明してるのでここでは割愛する。

※2022年3月追記。現在のここれんねでは心応理講座の第5回で詳しく説明しています。

基本的に高次の存在は、曖昧な答えしかくれない。「大丈夫」「それでいいんだよ」「心配ないよ」そんな感じだ。
人を傷つけたり悪口を言ったり、そう言った罪悪感を感じるような事を避ける。そして天使や神々、そう言った神秘的なものに必要以上に依存する事無く、自分の道は自分で決める。それを基本にしていれば、そうそう変なのには繋がるものではないので大丈夫だ。

全ての事象は必要性があって自分自身に起こる。 そこから学ぶべきものがあり、それに気付くために起こる。
最初から間違いも失敗も学びだと考えて、それを楽しむぐらいの気持ちで、自分が進みたい方に自分で決めて進めばいい。
未来の方向性は既に自分の中にあり、それに自分で気付くだけでいいのだ。
そういった人に、天使や神々も力を貸しやすい。