8.未海昇華

運気の上げ方(功徳の積み)

※初めての方はトリップする前に「れんねメモとは」をご覧ください。


運気を司るエネルギー

毎回言ってる事ではあるが、前世の記憶と言うのは、思い出せば思い出すほど、似たような人生の繰り返しだ。
昨年行った心応理ワークで、連続して前世を体験した人の中でも、とにかく似た人生の繰り返しに気づかされた人も多かった。
一つのテーマに絞り、その問題の原因となる前世を見に行っても、その原因となる前世がいくらでも出てきて、きりが無かったりする人もいた。

なので最近は、グループワークなどで既にいくつもの似た前世を思い出しているような人が、あらためて個人セッションを受けられる場合は、その一つのテーマに対する原因となる前世を、遡れるだけ遡ってみると言う誘導方法を行っている。 (通常、特に初めての方に対しては、1つの前世に絞ってもらった方が、体験も深まりやすいので、こういった誘導はしていません。)
その結果、色々と面白い共通項が見えてきた。

前世と言うのは、多くの人が過去の時代において人間だった記憶を思い出す人がほとんどだ。それは半分、根付いている概念的なものにも影響されていると言えるだろう。人間以外の人生を前世として認める事は、ちょっと難しかったりするものだ。
しかし、上記の通り特定のテーマでどんどん遡ってみる。紀元前、超古代文明の記憶、さらにもっと遡り、まだ地球が誕生して間もない頃まで遡ると、多くの人が地球以外の他の惑星で生活していた頃の記憶が出てくる。
そこではやはり人間の様な姿で高度な文明の中で生きてる記憶が出てくる人もいれば、人間以外のよくわからない生命の記憶が出てくる人もいる。
そう、多くの人が地球誕生以前から、やはり生命として輪廻を繰り返していた記憶が出てくるのだ。

その地球で転生を繰り返す以前の前世で、大きな原因が見つかる人もいる。結局それが原因で、それ以降ひたすら地球でその原因を消化できずに輪廻を繰り返していたというパターンだ。
そんな感じで、根本的な原因を探すべく徹底的に前世の大本を探るという誘導を行っていく中、さらに興味深い記憶の出てくるお客さんがいた。 天界にいたときの記憶を思い出す人だ。

天界にいた頃の記憶を思い出す人は何人かいた。私自身も天界に居た時の記憶はある。
でも天界と言えば、少なくともこの人間の世界よりは楽そうなイメージがあるだろう。そんな楽な世界にいたのに、何で今は人間として転生してるのかと言う疑問がある。本当に天界があるなら誰でもみな天界に行ってずーっとまったりフワフワ遊んでいたいものだ。
でもこうして天界の記憶を思い出す人が人間の世界に居るという事は、天界に行ったらそれで、ずっと天界にいられると言うワケでもないと言う事だ。

これについては私の中でも、天界という世界も人間よりは上の世界と言うだけで、転生する事もあるのだろうとは考えていた。
それは仏教で言うところの六道輪廻の中に天界も含まれて表現されている所からも想像できる。もし天界が永遠にそこにいられるような次元なら、六道輪廻からは外れた世界であり、解脱と同じ意味の次元と言うことになるはずだ。

もう一つ私の中で、こう言う事ではないかと思っていたのは、いわゆる天使や神々がよく人間に助言したり導いたり、奇跡を起こしたりして助けてくれる表現があるが、そもそもなぜ天使や神々は人間を助けてくれるのかと言う点について。
これは非常に人間的な考え方になってしまうが、そういった人間を助ける事で、神々はある特定のエネルギーを稼いでいると考えている。 その稼いだエネルギーで、その次元に居続けられているのではないかと言う事。

これは別記事 「天使や神々への祈り方」 で書いた菩薩さんのような時の記憶が出て来たときに感じた事だが、人間を助ける事で何かエネルギー的なものが上昇するような感覚があった。それがその次元に居られるエネルギーにもなってるような感じだ。
つまり人間界でいうところの仕事と同じで、稼いだエネルギーで生活して生きてるような感じとでも言えばいいだろうか。
なので、神様にとって人間は商売のお客さんの様なもの‥。いや、なんだか書いてて非常に所帯染みた考え方で罰が当たりそうだが(笑)。
なので一応フォローするなら、もちろん神様もわざわざ、今年のシーズンは稼ぐぞぉ的な意識で動いてるのではなく、そこには大きな慈悲が根付いており、ただその慈悲で動いている。その結果としてエネルギーも自然と保たれている。
商売意識があったらとっくにその意識状態と波長の合う人間界に堕ちてくるだろうとも言える。

ちょっと横道に逸れたが、その天界の記憶を思い出すお客さんの中で、さらに天界から堕ちて来るプロセスを思い出すお客さんがいた。 それがちょっと興味深かった。
その人の記憶では、こんな感じだ。
天界で天使だった頃、仲間と一緒に天界の空を飛び回って、ずーっと遊んでいたらしい。 たびたび偉い人に仕事をするように注意されていたという。
仕事と言うのは、人間に良いインスピレーションを与えたり、奇跡を起こしたりして人間を助ける仕事だという。
しかしその人は、それを無視して遊び続けていたという。するととうとう天界から堕ちて、人間に転生してしまったと言うのだ。

これは私にとっては、それまで考えていたものを裏付けるような形で得られた情報なので、なかなか興味深かった。
やはりどーも天界においても、その次元に居続けるにはエネルギーが必要だという事。そのエネルギーは人間を助けるようなことで得られるという事。
これは、ちょうど仏教で言うところの「功徳」に近いのではと思う。

私は別に仏教信者でもないし無宗教ではあるが、仏教用語は非常に人間に理解しやすい形で表現されているので度々使わせてもらっている。
ただ人間に理解しやすいということは逆に言えば、人間の概念に制限されやすい意味に解釈されやすいという弱点もある。
なのであくまで「意味が比較的近い言葉」として、今回はこの「功徳」と言う言葉を仮に使って、人の運気の流れ方を書いてみようと思う。

ちなみに、先ほどのお客さんの天界の記憶の中で、どーも私もそこにいたらしい。
天界を誘導している最中に、お客さんが突然「あ・・トミシマさんがいます!」と言いだすので、ビックリした。
思わず「え・・!今、私は、そこで何をしてるのですか?」と聞くと「マジメに働いています!」と答えられ、ちょっと噴出してしまった^^;
でも、同時にホッとした。「一緒に遊んでいます!」・・とか答えられたら、何だか普段偉そうに語っている立場的にどうしようかと思った(笑)

人の一生においての功徳の流れ方

私は「偶然」と言う言葉ほど「非科学的」な言葉は無いと思っている。科学で解明されない現象は全てこの「偶然」と言う言葉で片付けることが出来てしまうからだ。
お金持ちの家に生まれてくることも、貧しい家に生まれてくることも、ただの「偶然」という言葉で片付けられる。運が良かった、悪かったで片付けられる。

しかし多くの人の前世の記憶を見ていくと、愛情のある家庭に生まれることも、無い家庭に生まれることも、お金持ちの家に生まれてくることも、貧しい家に生まれてくることも、そこに一つの法則性が見えてくる。
それを分かりやすく表現できるのが「カルマ」や「功徳」と言った仏教的概念だ。
今回はその「功徳」の話になる。

カルマは良い行いをすれば良い事が返ってくる、悪い事をすると悪い事が返ってくるという、対象を限定的に見た場合の解釈になるが、功徳はカルマとはちょっと違う。
もっと長期的というか、全体的というか、これが言葉で説明するのも難しい。 エリアシフト(※現在の心応理講座)でも最終回で説明してるが、いつもどう表現すればイイか悩む。ネットで調べても功徳についてハッキリ明確に説明しているものが見つからず、正直言って本来の意味がどういったものかは、私にもハッキリは分からない。

ただ体感的には誰でも何となくわかると思う。「あの人は徳があるなぁ」と言う表現は何となく分かるだろう。
功徳は沢山あると、良い事や幸せだと感じる事が多くなり、多くの人に慕われるようになり、功徳が減ってくると、幸せだと感じる事も減っていく。 一種の運気をつかさどるエネルギーのような物だと考えれば近い。
では、この功徳と言うものをもう少し分かりやすいように、人の一生に当てはめて、その流れについて書いてみる。

幼少期

我々が生まれてくる時、すでに人間に生まれる事が出来ると言う分の一定の功徳を持っているから生まれることが出来る。
生まれたての赤ちゃんが誰が見ても輝いて見えるのは、情報の壁が薄いと言う部分もあるが、この功徳も沢山持って生まれてくるからこそ輝いているとも言えるだろう。

生まれてから大人になって働くまでは、子供は親に育てられる。それは親とどういう関係であれ、一定の功徳を持って生まれてきたからこそ養ってもらえる運命を持ち合わせていると言える。 そんな功徳を持って生まれてきたから子供は、親でなくても可愛いと感じる。何とかしてあげたいと言う気持ちになる。

しかし生まれ持った功徳は、生きていく中で少しずつ消耗していく。逆に親は、その子供を育てていく事で功徳を稼いでいる。
言い方を変えれば子供の功徳のエネルギーは両親に流れていくと表現する事もできる。 だから親にとって子供は可愛く手放したくない。
親は子供を育てると言う形で、子供から功徳を稼いでいるのだ。

ある程度年齢がいくと、子供は家を出たくなる。両親から離れたくなる。両親が重く感じられるようになる。
これは生まれ持ってきた功徳が消耗していることを、体感的に気付いてくる年齢に至るためだ。
この先は自分で功徳を稼がなければならない。だから将来に対する不安感も出てくる。
同時に言い方は悪いが、親によっても功徳が消耗させられていることに気付き、親から離れたくなる。 普通は一人暮らしなどを始めたくなるものだ。家から出たくなる。自立したくなるのだ。

だから20歳前後になったら、子供が自分で功徳を積めるようになると理想的だ。別にイイ大学やイイ就職先につく必要は無い。就職先が見つからなかったら、バイトでもいいし、バイトも難しければボランティアでもいい。
小さい頃、初めて自転車に乗れた時の事や、逆上がりが出来た時の気持ちを思い出してみて欲しい。そういった困難を乗り越えての成功体験の積み重ねが、大人になってからの本人の自信に繋がる。
それと同じで功徳の積みも、小さい積みから重ねていく事で、大きな功徳を積めるようになる。
お金は入らなくとも、人に感謝されてうれしいと感じる体験を増やしていくだけで、功徳は溜まり自然と運気も上昇して、やがてイイ職につけたり大きな成功を得たり出来るようになる。

そんな経験が無いという人は今からでも全く遅くはない。
ちょっとした親や友人の何かの手伝いからでもいい。感謝されそうな事を探してやってみればいい。
ただし、その時いちいち見返りは望まない事だ。特定の相手に何かを望む事もまた消耗に繋がる。
そんなものは相手からもらわなくても、功徳が稼げれば自然とどこか違うところから入ってきたりもするものだ。それを楽しみにしておけばイイ。

社会人

会社に勤めると働いて給料がもらえる。 これは厳密にはこうだ。
会社でお客さんに喜ばれる仕事をして、お客さんから感謝されて功徳を稼ぐ。
しかし会社からは給料が出る。その給料をもらう事でその分の功徳は消耗する。
会社は社員の給料を支払う事で、お金は減るが功徳は稼ぐ形になり、その後の会社の運気に繋がっていく。
言い方を変えれば会社は社員を通してお客さんからの功徳を稼いで成長していく。 だから給料が安くても、本当は自分が頑張った分の功徳はちゃんと自分の中に入っているものなのだ。

功徳は溜まってくると自分の願い事や欲しいものが手に入りやすくなる。ちょうど目に見えないお金のようなものだ。
功徳が沢山溜まると良い事も増える。つまり運気が良くなる。

しかし例えば目に見える安い給料に不満を持ったとする。会社に文句を言ったとする。
ここで気を付けなければいけないのは、文句を言ったり悪口を言ったり、傷つくような事をしたりする事は、大きく功徳の消耗に繋がると言う事。
文句を言われた会社も、その社員の不満を押さえ込もうと抵抗すると会社の方も功徳を消耗する。
功徳を消耗すると、お金が出て行くことが増えたり、傷つけられる事が増えるなど、嫌なことが増えてしまう。

じゃあ、逆に給料安くても不満を言わずに我慢していればいいのか?
我慢するようなら、それでは功徳の消耗と同じだ。
ようは給料が安くても、お客さんが喜んでくれるなら構わないと言う意識で頑張っていられると、功徳はさらに溜まっていって、ある時それが現象化する。
昇進の話が出てきたり、あるいは他所の会社からおいしい引き抜きの話が出てきたりなどと言う具合に、自分とその会社との似た要素が無くなり、功徳に差が生じてきた時点で縁が切れる。 そのチャンスのタイミングでうまくさらに上へと移動すればイイ。

家族において

さて、仕事で稼いだ功徳はその後どうなるかと言うと、家で消耗する形になる。
たとえば実家に住んでるなら、家に住まわせてもらっていると言う点で消耗し、ご飯を食べさせてもらっていると言う時点で、また消耗する。
逆に親は子供を養い続ける形で、功徳を稼いでいることになる。

だから功徳を分かり易いように現金的な解釈で表現するなら、家にいるだけで親に功徳を奪われている状態とも言える。
なので自分自身の功徳、運気を上げたいなら、家から出るか、家にお金を入れるか、親孝行するかなどで取り戻した方がいい。

親にしてみたら、子供が可愛いし何とかしてやりたいと、一生懸命子供のためにと動くことで、功徳を稼いでる事にもなるのだが、子供の方はその分功徳を消耗してることになるので、子供自身の運気は落ちる。
だから必要以上に子供を甘えさせると、子供は余計に自立できない。「過保護」と言った表現は言い方を変えれば、子供の功徳を親が奪いすぎて子供が自分で功徳を稼げなくなる状態とも言える。
本当の意味で子供に幸せになって欲しいのなら、子供自身が自分の力で功徳を稼げるように考えて接する事だ。

功徳は近い言葉で言えば、感謝されるような事を行う事で溜まるエネルギーと考えればいい。ただ近い言葉と言ったのは、厳密には別に特定の相手から、その功徳のエネルギーを奪っているわけでもないからだ。
分かりやすいから奪うと言う言葉を使ったが、厳密にはどーも違う。 実際には奪う側は、高次元のエネルギーが入りやすくなるような感じだ。
奪われる側も奪う側に功徳を持っていかれるのではなく、ただエネルギーを消耗すると言う感じ。
だから消耗する側は、相手に感謝を伝える事で、多少なりとも消耗を防ぐような形にもなる。

結婚後そして老後

子供が大人になって結婚した後はどうなるか。
父親となる人は、先ほどのように同じく外で働いて功徳を稼ぐ。稼いだ功徳で家が建つ。そこに奥さん子供がいる。家族を養うことでまた功徳を稼ぐ。
母親となる人はどうなるか。専業主婦の場合は、ご主人の家なら家に住んでいる時点で功徳は消耗していく形になるのだが、ご主人や家族の為に、ご飯を作ったり家事をしたりする事で功徳を取り返している。

共働きで奥さんも家賃や家計を助けているような場合は、ご主人と同じように功徳を稼いでいる事になるので、ご主人も家事は分担したほうがいい。功徳的に見れば家事も立派な仕事になるからだ。
やがて両親の功徳に見合った功徳を持った子が生まれてくる。その子供を育てていく事で、また功徳は積まれる。

年をとって年金生活になる。子供が若い頃、子供のためにと懸命に功徳を積んだ親は、自然と子供に助けられる。
死期はさまざまな理由によって決まってくる。基本的には稼ぐ功徳よりも消耗する功徳の方が大きかったりするとある程度功徳が無くなった時点で、病気や事故に遭いやすくなる。

ただ、様々なケースがあるので一概にそうだとは言えない。自分ではなく家族のカルマを吸収してしまう事で生じる病気もある。それでもとにかく何らかの浄化だと考え、何の浄化なのか気付きに至り、前向きな気持ちを保つ事ができれば、功徳さえ残っていればそう言ったものも乗り越える事は出来る。
あるいはそういった前向きな気持ちを保つ事自体もまわりにいい影響を与えるので、新たな功徳になる。
理想は老衰で、幸せな気分で亡くなることだ。

そして亡くなると残った功徳は来世に持ち越され、その功徳に見合った人生が来世で展開する。
なので、もう亡くなるって時は、財産があったら出来るだけ手放したほうがイイかもしれない。手放す事で財産は功徳に換金され、もっとイイ来世に繋がるかもしれない。

功徳がどういったものかイメージ出来てきただろうか。人に親切にした時、ちょっと温かくなるような感覚。あれが功徳が入ってくる感覚だと考えるといい。
逆に人と騒いで楽しく過ごした後、妙な寂しい感覚があるだろう。あれが功徳を消耗した時の感覚だ。

え?人と楽しく過ごすことは幸せなことだしイイことなんじゃないの?と思うだろう。
単純に日々の辛さを忘れるために騒ぐだけとか、特にこれからの人生になんらイイ変化をもたらす事に繋がらないようなお楽しみは、功徳を消耗するだけと言える。
だから終わった後に寂しい気持ちになる。
なので友達と騒いだり楽しんだりする時は出来るだけ互いにまた明日から仕事頑張ろう!みたいな前向きな気持ちに互いになれるような楽しみ方のほうが理想的だとは言える。

最初のお客さんの天界から落ちた時のエピソードの話。その人は天界で働かずに遊んでいて堕ちてきたと言う。こう言った表現をする天界の記憶を思い出す人は、これまでにも何人かいた(功徳が無くなって落ちてきたと言っても、人間に比べたら全然ある方なので、人間界では比較的、楽な暮らしの出来る人生を送っているはず)

これらの話から、人間界は目に見えるお金を稼いで生活していく形だが、天界は功徳を稼いで生活していける次元と解釈することが出来る。
しかしこの功徳を稼いで生活できると言うのは基本的にはこの人間界においても同じだ。 功徳を稼ぐとお金は後からついてくる。
功徳があり本当にお金が必要な時は、思わぬところから自然と入るものなのだ。 功徳は目に見えない、お金は目に見える。だからお金で生きていると錯覚しやすいだけなのだ。

次に、功徳についてもう少し具体的に例を挙げていく。

功徳のある人、ない人

自分の周りの人達を一人一人思い出してみて欲しい。親切にしてあげたいと思う人、そうは思えない人と分かれるだろう。 あるいは遊びに誘いたい人、誘いたくない人。何かおごってあげたい、おごりたくない人。
これがすでにその人達の功徳の違いをキャッチしていると言えるのだ。
何かと親切にしてあげたくなる人は功徳を沢山持っていると言える。 簡単に言えば、そう言うことになる。

ただ実際には、複雑で単純にそうとも言えない場合も多い。
例えば相手の方が、こちらの状態に影響されてそのように行動してしまうだけと言うこともよくある。
自分が欲張りだと、自然と周りの人もそのエネルギーに影響されて欲張りになる。オークションやバーゲンにいくと競って欲しくなるのは、そのためだ。
常に損したくないと、お金に必要以上に囚われていると、自然と自分と接する人もお金に対して損したくないと言う意識が強くなるので、結果的に余計にお金が入りにくくなったりする。

一見得したように見えても、それが自分の功徳に見合ってないと、得した分だけ別の所で損をすることもよくある。
逆に普段から人に親切するのが好きな人は、自然とその人の周りの人も親切な人が集まりやすいものだ。
もちろんこれらは親の影響も大きい。 実際にはその人自身ではなく親のカルマや波長の影響で、その人の性格が本来のものではないような状態になっていることもある。

それでも本質的に功徳のある人は、誰からも信頼され自然と人気が出てくるものなので、すぐにわかる。
その人が何か困ってると自然と助けが入る。それほど働いてるようでもないのに、お金に困まってる様子でもない。
常に前向きで、その人と話をしているだけで元気になってくる。そう言った人が本質的な功徳を持ち合わせている人と言えるだろう。

うつわを大きくする

では、どうすれば功徳を沢山持てるか。エリアシフトでは功徳の話と一緒にうつわの話をする。
うつわと言うのは、功徳を貯めるためうつわだ。このうつわは人によって大きさが違い、沢山の功徳を貯めるためには、このうつわを大きくしなければならない。うつわが小さいといくら功徳を貯めてもこぼれ落ちてしまうからだ。

うつわと言うのは、その人の精神性とでも言えばいいか。例えば目先の事でなく、沢山の人の将来の幸せに繋がるような事が実行できる人、会社全体や、国全体、地球全体を考えて、日々行動に移せる人など。あの人はうつわが大きいと言う表現で表されたりもするだろう。
そういった人はうつわが大きく、貯まる功徳も大きいので、それだけイイ事や幸せな事も起き易い。

ただしそう言った沢山の人に影響を与える立場、そこには集合的カルマ、集合的功徳とでも言えばいいか、そこに絡む違うエネルギーの影響もあるので、また話は変わってくる。
政治家なんかは、国全体の業や功徳に影響される事も多く、本当によい政治が出来れば、とても大きな功徳に繋がるが、悪い政治に繋がるとその業も深い。
ただし、例えば1000人を虐殺した政治家が、そのカルマによって来世で1000回殺されるのかと言うとそうでもない。 指示したのがその政治家であっても、実際に1000人の虐殺が起こることは災害に近く、その国の業の影響の方が大きい。
その政治家が背負うカルマは、その魂の背負える大きさに限られる。同時に積んだ功徳も来世に持ち越せるのは、その魂の持っているうつわの大きさに限られ、残りはこぼれ落ちてしまう。

これは妙に京ひぷの(※現在のここれんね)に限っての事なのか、特に幕末と戦国あたりの歴史上の人物の記憶を思い出す人が多く、なんだかそんな歴史上の人物で頑張っていた人なのに、今世では普通に主婦?みたいな、ちょっとそのギャップに心の底で身悶えしていたのだが、客観的に考察していく中で、自分の中で出てきた結論が、上記のような感じだ。
もちろん国を動かすほどの立場になるだけでも、多大な功徳が必要になる。それだけの功徳を稼ぐには、それだけ多くの人の信頼を得る事が重要になるだろう。

かなり横道に逸れたが、うつわを大きくするためには近い表現で言えば、自分個人や家族と言った単位ではなく、沢山の人の幸せになることを考えて行動できるようになる事と言えばいいだろうか。手段は色々あるとは思う。

人を通しての功徳のため方

うつわが大きくなると自然と功徳も貯まりやすくなるものではあるが、もう少し具体的な貯め方としては、基本的には人に感謝されるような事をどんどんやっていく事だ。
別に言葉で感謝されなくてもイイ。その人が「ああ助かった」と、幸せだと感じてもらえるだけでいい。
朝早く学校に来て、自分の教室や部室を掃除する。そんな事でも功徳は貯まる。自分が掃除したことを知られる必要は無い。

例えば、人が困っている時に自然とスムーズに助けられる人と言うのは、功徳の積みがうまい人だ。
相手が次にこの行動に移す時、これがないと困るだろうと、相手の気持ちを自然に察知でき助ける事ができる人。 いわゆる「気が利く人」だ。
こう言った人は小さな功徳を意識せずに自然と積んでいるので、いい運気を掴みやすい。

人のいい部分を見つけて素直に褒める事が出来る人も、功徳の積みがうまい。 人の中の目に付くイイ部分と言うのは、自分の中にも眠っている同じイイ部分とも言える。
だから人を褒めれば褒めるほど、功徳になると同時に自分のイイ部分が刺激され成長する。

小学低学年の頃、その時の担任の先生が早く賢くなる方法として、こんな事を言ったのをよく覚えている。
「家の玄関で、斜めになった靴をちょっと正しく直すだけでも、脳のしわが1本増えて賢くなるんですよ」
これを聞いた当時の自分はそれはすごいと思って、毎日靴の位置を直したら自分はどこまで賢くなるんだろうとワクワクしながら、親が靴を斜めに脱ぎ捨ててくれるのを心待ちにしていたものだ。
それで脳の皺が何本増えたかどうかはわからないが、これって今から考えると、徳積みにはなってたんだろうなって思う。 だから子供に自然と功徳を積ませるには、こういう教え方もイイかもしれない。

自然を通しての功徳のため方

自然から功徳をもらう方法もある。自然のある場所に行ってすがすがしい気持ちになる。そんなのでもいいし、自然の場所が遠ければ、日の出を見て太陽からエネルギーをもらう方法もありだ。特に朝と言うのは、太陽からとても綺麗なエネルギーが注がれる。こう言ったエネルギーを貯める方法もある。
ん?自然や太陽のエネルギーって功徳なのか?と思うかもしれない。私も今書きながら少し思った^^;
いや、でも確かに朝は外を歩いてるだけでも気持ちがいいし、明らかに昼間とエネルギーの質が違うと思う。元気になる感覚がある。十分功徳だと思う。
まぁ、ちょっと確信はないので、また何か分かったら追記しようと思う。

あとは天からもらう方法。これはエリアシフトの最後では「供養」として説明した。神様や自分のご先祖さんに対して食べ物や水を献上してから頂く方法だ。
具体的にはお墓参りに行って、お供えしたものを帰ってから頂く。神さんや天界の存在に供養して功徳をもらう方法もあるが、この辺りはあんまりスピ系に偏ると、中にはただの動物霊を天界の存在と錯覚してしまう人もいて、ちょっと危険な部分もあるので、WEB上では説明を省略する。 先祖供養だけでも十分だと思う。

自分の目標は、人の目標を手助けする事で叶い易くなる

色んな職業において、その道を極めるために弟子入りする事が昔からあるだろう。 弟子入りと言うのは、弟子の間は、師匠の身の回りの世話や手助けをひたすら行う。
雑用ばっかりで、全く仕事を教えてもらえない。いつになったら仕事を教えてもらえるんだろうと、そんな状態のお弟子さんもいるだろう。

しかし功徳と言う視点で見ると、弟子として師匠の身の周りを世話する状態だけでも、ちゃんと師匠の仕事の運気、功徳を分けてもらっている事になる。 だから仕事を教えてもらえなくても、ちゃんと自立するための功徳は溜まっていくので、何も心配は要らない。 弟子をしながらも自分なりに自分の腕を磨けばいいのだ。
そうすれば、ある一定の功徳が溜まった時点で必ず何らかのチャンスが訪れる。それを逃さず掴む事だ。
逆に師匠に対する不満ばかり溜め込むと、余計に功徳は溜まらない。 将来の夢がある人は、とにかくその夢を叶えている人に近付いて手助けする。そうする事で、その分野での道が開けやすくなり功徳も積みやすい。

功徳の消耗を防ぐ

人を傷つける事や迷惑をかけることは大きな消耗に繋がる。人に依存したり、助けられる事も功徳の消耗になる。
自分で出来る事は出来る限り自分で行う。人に頼らないことは功徳を消耗しない基本姿勢としてイイ事だとは思う。 でもそれに慣れて余裕が出てきたら、積極的に人に親切を行って功徳を積み、同時に人からの親切も、ああこの人はすばらしい功徳を積んでるんだなと考えて受け止め、その人を褒め称える事でよりいっそうその人が功徳の積みに励むようになったら、その事自体が自分自身の功徳にも繋がるので理想的だ。

その他「楽しむ」と言うのも功徳の消耗に繋がる。これは先ほどの天界から堕ちる話からも分かる。 楽しむ事がいけないと言うわけではない。生産的な事に繋がらない楽しみが、タダの功徳の消耗と言う事だ。
みんなで飲んだ後、ちょっと寂しくなるあの感覚が功徳の消耗だ。

しかし、その楽しみによって自分がよりいっそ前向きになる。前進に繋がるなら、ちょっとした功徳の消耗も それ以降の大きな功徳の積みに繋がるなら何ら問題ないだろう。
よく大きな仕事が片付いた後、みんなで乾杯しようみたいな事はあるだろう。 これは乾杯が功徳の消耗に繋がり、大きな仕事が片付いたあと、つまり大きな功徳が積めた後なら多少功徳を消耗しても大した事は無いだろうと潜在的に分かっているからだ。

小さい頃、この勉強が終わったら、お菓子を一個食べようみたいな事をしてた人もいただろう。
人間は潜在的に楽しみが功徳の消耗に繋がる事も、人のために動く事が功徳の積みになることもよく知っているのだ。
なので人と楽しむ時は、何かそこに目的を作っておく事が、消耗を抑えるコツだ。今日はみんなで楽しんで、明日からまた頑張ろうみたいな。そんな気持ちで楽しめるならいいと思う。
例えば、友達と呑みに行って別れる時は「じゃあ今度は、○○さんが、○○出来た時にまた呑もう」みたいな感じで目標を立てるだけでもいい。するとまたみんなで呑むのが楽しみだと思いながら、その目標まで頑張れる。
逆に、ああこのままずっとみんなと楽しみたい、死ぬまで飲んで朽ち果てたい‥。みたいな心構えは、気持ちは分かるが残念ながら功徳は消耗していく一方だ。

無意識の功徳の消耗を防ぐ

功徳の積みが下手な人は、自分で気付かないうちに人に迷惑をかけていたりするものだ。
例えば、何気にゴミを道に捨てる。特に日本は道が綺麗な方なので、ちょっとしたゴミも結構目立つ。
捨てた本人は軽い気持ちだが、想像してみて欲しい。 そのゴミが、誰かが掃除をして片付けられるまでに二日かかったとする。その二日の間に、そこを1000人の人が通り、その中の300人の人が、そのゴミを見て嫌な気分になったとしたら‥。
捨てた本人は、300人分の気分を悪くさせたと言う事になる。それだけ功徳を消耗した事になる。

いつも思うのはメディアの恐ろしさだ。何万と言う人が目にする一つの番組でも、見る人を幸せな気分にさせる放送内容にするか、不安をあおる放送内容にするかで、どれほどの功徳の差が出るのだろうと。
今なら、ネットの影響力も大きいだろう。普通の友人関係の間レベルで考えたら、たいした事のない悪い冗談でも、それをネットで流してそれを見た人のうち1万人の人が気分を害したとしたら、その影響を想像する事は難しくない。ブログ炎上や、逮捕される人。普通に考えたらちょっと大げさなのではと思うような事態になってしまうのはこのためだ。1万人分の迷惑料を支払わされているようなものなのだ。
政治家のちょっとした失言がすぐ政治家生命に響いてしまうのも今のこの情報化社会の特徴とも言える。 ただ、逆に言えばちょっとした人に幸せを与えるような事をネットで発信し、それを1万人の人が読んで幸せな気分になれたら。これもまたすごい功徳になると言える。

そんな感じで、功徳の積みと消耗は気づかない所に沢山ある。だから自分の行動で人がどんな気持ちになるのかと言うことをよく客観的に理解しておく事が大事だ。そこを意識できる人なら、無意識に功徳を大きく消耗するような失敗はしない。
と言うか、本当はそんな功徳の積み云々を意識せずに、自然と功徳が積める人になる事が最も理想的だ。

天界では、人間を助ける事で徳が積める。他にも物質界の生命を守ったり、成長を促す事で徳は積める。
しかし、人間界に比べると天界で徳を積むというのは実は結構難しい事なのだ。
なぜなら天界は人間界に比べて、苦しみそのものが絶対的に少ない。まぁ、苦しい事が少ないから天界と言えるのだが。 だから助けを必要とする人がほとんどいない。そのため徳の積みようが無く、物質界の生命を助けて、功徳を積んでいる。

天界って一見、幸せそうなイメージだが、苦しみの無い世界を具体的に想像してみて欲しい。 苦しみがないという事は、楽しみを楽しみとして認識できないと言うことなのだ。
人間界には一定の苦しみがある。苦しい事があるから、楽しい時を「ああ楽しい」と認識できるのだ。
苦しみが無くなったら、楽しみとはいったい何と比べて楽しいと感じればよいのか。
だから苦しみをよく知っている人ほど、楽しみたい楽がしたいと感じる事が出来るのだ。

人間界は苦しい事が沢山ある。おかげさまで功徳を積むチャンスがゴロゴロ転がっている。
つまり苦しい世界と言うのは、非常に功徳が積みやすい世界とも言えるのだ。
もう天界から見れば、功徳を積める最高の穴場だ。 だから功徳が無くなって天界から落ちてくる魂もいれば、その功徳を大量に稼いでやろうと出稼ぎ感覚で天界から降りてくる魂もいるのだ。
あんまり長く天界にいると退屈すぎて、むしろ苦しい事が刺激的で魅力的に感じられてしまったりするのだ。

その人が天界から単に堕落して堕ちたのか、それとも功徳を積みに降りてきたのかは、その人がこの人間界でどのような生き方をするかによって分かるだろう。
単純に功徳を消耗し続けるような生き方なのか。あるいは功徳を積みまくるような生き方なのか。

そしてそれが来世どこに転生するかに繋がっていく。
また人間として似たような人生を送るのか、今世で積んだ功徳によって、もっと高い世界に転生するのか。
これからの自分の生き方で全て決まっていく。