タグ: 奈良時代(8世紀前後)

※初めての方はトリップする前に「れんねメモとは」をご覧ください。

平安時代の前の前世という形で自分を誘導したところ、何か大きな大仏を工事してるような場面が出てきた。これは奈良の大仏なのか?でも屋外だし、ちょっとよく分からなかったが、とにかく巨大な大仏の設計なのかデザインか何かに関わっていて、現場で図面と見比べて指示してるような場面だった。 これまた面白そうな前世が見えてきたと思い、詳しく見ていった。

しかし平安時代と違い、とても平和で苦しみのない人生だったようで、2~3回見ると、もう出にくくなった。あんまり未浄化の感情などはないと言うことか。
あらためてヒプノも使って探ってみる。そこで見えてきた奈良時代の大仏制作に関わってたと言う前世物語をまとめてみた。

  • 時代(西暦):700年代に生まれ、800年前後60~70代で亡くなる
  • 主に住んでいた場所:おそらく関西方面
  • 主な職業:仏師

※以下は、瞑想で探索して出てきた記憶をまとめたものになる。

仏像に魅せられる(10代前後)

  • 賑やかな家族
    賑やかな家族

この時代では、わりと幸せな幼少期を送っていたようだ。普通に賑やかな家に育っている感じだ。
両親も元気で、ちょっと大柄で厳しそうな父親と、ちょっとうるさそうな母親。兄弟が居たような感じもある。弟か。あと姉も居たような。
平安時代と違い、ごく幸せな家庭で育っていった印象だ。なんだかこれまでの記憶に比べて、久々に平和な普通の幼少期なので、ちょっとホッとしてしまう。

場所は関西方面だとは思うが、何となく結構、田舎と言うか自然が沢山あるイメージが強いので、よく分からない。

おそらく何かのきっかけで、どこかで仏像を見てから、一気にその世界に惹かれていったのだろう。結構早いうちから仏像に非常に興味を持ち始め、その方面の仕事に就きたいと思って、色々動いていた感じがする。
多分、誰かそう言った先生のもとで、勉強していたのかもしれない。

  • 仏像に魅せられる
    仏像に魅せられる

ちょっと分からないが、この辺ではもう両親や家族の印象が薄い。まさかこの生でも結局、親との縁が薄いのか?でも家族を亡くしているという感じではない。
どーも早いうちに家を出ていって、そう言った仏像作りの修行に集中していたのかもしれない。家にいると親がうっとおしく感じているのは何となく分かるので、単純に家の事から逃避しているだけかもしれないが。

それ以外は、ホント大して大きな事件もないので、出てくるイメージもわりとおおざっぱ。基本的に感情の波もそんなに激しくなく、この辺りはあんまり明確には見えてこない。

大仏の建造(20~30代前後)

※以下は、グループヒプノ(※現在のれんね瞑想)で最初に出てきた時の記憶をまとめたものになる。

  • 大仏の建造
    大仏の建造

この場面がヒプノで最初に出てきた場面だった。年代は746?764?その作業場で自分が図面らしきものを持って実物と見比べているようなそんな場面だ。これってサイズ的にも奈良の大仏だよなぁと思いながらも、もしかして自分自身が設計したんだろうかと思ったが、この時点では確信は得られなかった。

自分は、その建設中の大仏を見ながらいつも天気を気にしていた。
雨を心配してるのか。この大仏を囲う屋根が欲しいと考えているみたいなのだ。予算の都合なのか、よく分からないが、その時点では出来ないとあきらめており、なにか建造の要所要所で、濡れるとまずいタイミングがあるのか、雨が降らないように気にしてる場面が時々出てきた。
そう考えると今の大仏を囲ってる建物は、大仏を造る時は無かったのかもしれない。多分ネットで調べればそんなのすぐ分かりそうだが、ちょっと面倒くさいので考えない事にする^^;
とりあえず前世の話を進める。

ちなみに気になるのは、大仏の右手方向(向かって左)に、岩なのか山なのか何かの建物なのか、大仏ほどではないけども、何か大きなものがある。それが何なのかはよくわからない。大仏の建造資材なのかも知れない。何か大仏を作るのに必要な大きなものって感じだ。

また、その頃の生活のわかる晩御飯の場面は、その工事現場でみんなと食べている場面だ。今で言う出張のような感じだろうか。だとすると奈良近辺に住んでいたわけではないのかもしれない。

幸せな暮らし(20~30代前後)

  • 穏やかに暮らしていた
    穏やかに暮らしていた

続いて幸せな場面を見に行く。自分は結婚しており子供もいて幸せな暮らしをしている様子だった。奥さんは今世においての、うちの母親っぽい。
子供は男の子か?よくは分からない。子供に意識を集中しようとしても、気持ちが持続しない。

他の前世でもそうだが、もひとつ子供に対する興味は小さいみたいで出にくい。
別にどうでもイイと考えているわけではなく、可愛いことには変わりないんだけど、自分の子供としてではなく一人の人間として立派に成長して欲しいと考えており、奥さんに対してもそうだが、必要以上に関わらないみたいな。この辺は毎生似ている気がする。

住んでいる家は、どこかちょっと山に入った所での大きい家ではあるけど質素な感じの家だ。半分、工房のような感じにしていたのかもしれない。

全体的にのどかで平和と言うか、どうしても平安時代や、この後に書く邪馬台国と比較してしまうのだが、なんと平和な人生だったのだろうとつくづく思わされる 。

大仏の完成(20~30代前後)

  • 大仏が完成し功績が認められる (1)
    大仏が完成し功績が認められる (1)
  • 大仏が完成し功績が認められる (2)
    大仏が完成し功績が認められる (2)

重要な場面として、その大仏が完成した場面が出てきた。現場の人達も大喜びしている。

無理なんじゃないかと思う事も度々あっただけに、こうやって大勢の人の協力を得て、立派に完成させる事が出来た事が、とにかくうれしくてとても満足している感じだ。
なんかこれでもういつ死んでもイイやと思うぐらいの大きな達成感が感じられる。

そして何か帝さんか誰か偉い人や大勢の人に祝福されているのか大事な式典のようなものの中で、真ん中の道を歩いている感じの場面も出てきた。
向こうに帝さんか誰かがいる。なんか大きく評価されたような感じがあってうれしい場面だ。

しかしちょっと気になったのはこの時の自分はお坊さんのような衣装を着ている。お坊さんのような感じもする。お坊さんとデザイナーを掛け持ちしていたのだろうか。
いや‥デザイナーと言うより、当時の仏師と言えば、お坊さんとしての立場も何か関係しているのかもしれない。
その辺は調べればすぐ分かると思のだが、やはり面倒くさいので考えない事にする。
よく分からないが、とにかくお坊さんっぽい衣装だった。

ワークが終わってから色々考えたが、見上げるほどの大きさの仏像で思いつくのは、奈良の大仏と鎌倉の大仏。
しかし、こう言ったことを書いてよいのかどうかわからないが、鎌倉の大仏は顔のモデルや、やや前かがみに見えてしまうフォルムが、どう考えても自分の好みではなく、とても好き好んで自分が設計した形とは思えなかった。それに比べれば奈良の大仏の方が、まだイメージ的に自分が好みそうなデザインに近い。
でも背後の板とか、今現在のは色々と飾り物とか余計なものが多すぎる感じもある。これは当時からあったものなのだろうか。無かったんじゃないだろうか。あったとしたら自分としては当時反対していそうだ。
とにかく平安時代以前の前世として自分を誘導した所からも、やはりこれは奈良の大仏だろうとは思う。

前世日記か?(40~60代前後)

  • ここでも前世の記録か?
    ここでも前世の記録か?

何か仏像制作以外で建築にも関わっていたのか、その後もちょくちょく建築現場のような所に出入りしている場面があった。単純に好きで見に行ってるだけかもしれないが。
また今世に影響を与えている場面として出てきたのは、なにか書物を書いてるような感じの場面だった。
でもこの頃そんな書物を書いたりする道具とかあったのだろうか。多分、なんらかの形で何か記録を残そうとしている場面っぽい。これまた前世日記だろうか。

なんか全体的に幕末と似たような流れになってる。今世もそうかもしれないが、若い時に何かでちょっと成功して、結婚後は何か研究に没頭して、老後は前世の全てを記録に残そうとしているパターンが多い。

現場で亡くなる(60~70代前後)

  • 現場で倒れる
    現場で倒れる

亡くなる場面は、なんか工事現場のような野外で亡くなっている感じだ。
何か期待している建造物を作ってる工事のようで、様子を見に来ている様子だった。仏像なんかもあったのだろうか。現場の人達もよく知ってる人達で見せてもらってる感じだ。

ところが突然倒れて、まわりの現場の人たちが駆け寄る。どーもこれが最後だったようだ。
あっさりと亡くなった感じで、気が付くと倒れた自分を見下ろしている視点になっていた。
特に悔いもなく満足して亡くなったようだ。

体験後の検証

全体的には、普通に考えれば大成功のはずの前世なのだが、自分的には特に大きなトラブルがあったような感じもないので、印象の薄い前世だ。
だから2~3回見直してみたものの、上記ぐらいの内容が出てきた後は、潜在的な興味も薄れたのか、すぐにその次の邪馬台国らしきところの前世の記憶が強く出てきて、そっちの方が気になり始めたので、それ以後はこの前世については詳しく見ていない。

しかしあらためて考えると、この前世も今世において思い当たることは沢山ある。
今世で昔いた鋳物の会社では、東京の皇居の二重橋の復元工事の設計を担当していたし、仏像への興味は昔からあったものの作った事はないが、仏画であれば以前描いていた。
そういや厳密には違うものの、大日如来の坐像を描いている所なんかも、イメージ的に似ている。

でもだからと言って、奈良の大仏は何度か見に行ったが、それで何か衝撃があったとかは、全くない。特に何も感じなかった。
見上げて見る感じは、前世の記憶と近いものがあって感じる部分もあるが、当時は現在の仏像ほど豪華ではなかったイメージだ。もっと素朴と言うか飾り気のないイメージだ。特に自分の中では、あの豪華な背中の板に違和感を感じているのだが、あれは当時からあったのだろうか。あったとしたら当時の自分も違和感を感じていそう。

あと、確か手塚治虫の「火の鳥」の漫画で、奈良の大仏を題材にした話を読んだ覚えがあるが、あの話では、仏像建造のために多くの民衆が税金で苦しんだと言う表現だったが、自分もそこは気になって、前世の記憶の中でそう言った問題は無かったのか探してみた。しかしあんまり出て来なかった。
とりあえず自分の周りでは、それ以上に大仏が早く完成することを望まれていたような雰囲気ではあった。
まぁ、自分の周りと言えば逆にその仕事に携わって生活が助かる人が多かったわけだから当然だし、単に自分の所にまでそう言った反対の声が聞こえてこなかっただけとも考えられる。
ただ仏像建築にすごいお金がかかると言う所に意識が向くのは、西洋的な現代人の価値観による想像部分も結構あると思う。
当時の日本人は、まだそれ以上に見えないものに対する恐れや信仰心のようなものは強く、当時の自分もこれで多くの人が、この大仏に手を合わせるようになると、その意思の力は大きなものになると期待していた部分も大きかった。

そう考えると、今の奈良の大仏は本当に色んな意味で綺麗過ぎる印象だ。それは正直言って、祈るための仏像と言うより、見るための仏像になってしまっている。当時はまだ祈るための仏像としての存在感があったように思う。最初だけだったのだろうか。
まぁ何度も修復されて今の大仏があるワケだから、当時の大仏と現在の大仏とは全く別物と言ってイイとは思う。だから私が今世で大仏を見ても全くピンと来ないのかもしれない。

京都の古いお寺とかに行くと、古くからある仏像はもう真っ黒で顔も怖くて、子供が見ると泣き出しそうな雰囲気の仏像が沢山ある。
これが本来の仏像とも言えるのだが、でも仏さんなのに怖いと感じるのは失礼な気もする。でも正直言って私が見ても怖いと感じる仏像は沢山ある。とても手を合わせて祈りたいと言う気持ちになり難いことが多々ある。まだそう言った像のない神社の方が祈りやすい。
何でだろうと思って、友達を案内がてら寺に行った時に気付いたのだが、この古い仏像の怖さは仏さんそのものの怖さではなく、「仏」さんに対してではなく「仏像」に対して祈っている人達の「念」が仏像に浸み付いてしまって、独特の怖さを出してしまっているんだなと、最近気が付いた。

仏像と言うのは、本来は人々が神仏をイメージしやすいように形にして作られる代理のようなものだ。神仏自身は、ここではない高い次元にいるのだから、本来はそれをイメージして、目の前の仏像を介して、高次元の神仏と繋がるとイイのだが、やはりつい目の前にその姿で仏像があると、目の前の仏像にも意識が囚われやすい。だから上に上がるはずの気持ちの一部が、その仏像にも残って、長年沢山の「助けて欲しい」と言う気持ちが積もりに積もって独特の怖さを出しているんだなと気付いた。
なのでお寺で仏像に手を合わせる時は、その仏像の示す仏さんが雲の上にいることを自分の中でイメージして、そのイメージに対して祈るように意識した方がイイかもしれない。

  • 大日如来
    大日如来

何だかそう言った意味では、結局は仏像ってどうあるべきものなんだろうって思う。右図の仏画を描く時も色々考えさせられた。これは当時、仏画の練習として根津美術館にある大日如来図を復元するイメージで始めたものの、だんだん我が出てきて色味なんかは全く自分のオリジナルに変えてしまい、ちょっと本来の仏画とは雰囲気の違う大日如来図になってしまっている。
これを描く時も、特に違和感を感じていたのは装飾が多すぎる事で、煩悩を手放すはずの仏さんが物質的な装飾を身に付けていると言う姿に当初違和感があった。
ただ、練習なので複雑な方がイイと思いこれを描く事を選んだのだが、描いているうちにこの大日如来図を最初に描いた人の意図が分かってきた。

ようは、この豪華な装飾は大日如来の「あふれんばかりの知恵」を表現しているのだ。
そして同時に、ひたすらこの細かい装飾をたんたんと描く事で、この絵師も自分に対する囚われを手放したいと考えていたのだろうと言うことに気が付いた。

仏像もそうだ。一つ彫るごとに手を合わせると言った気の遠くなるような作業で昔は作り上げられていたと言うし、仏画もそうだったと思う。それは当時においては作り手、描き手の精神修行であって、最初からその完成品によって人を救おうと言った気持ちは、ただのエゴになるんだろうなと。
そう言う意味では、当時の自分にとっても大仏建造はあきらかに精神修行とはまた違うものであり、当時の仕事の一つと言える。当然エゴも入る。なのでそれが良かったのかどうかはわからないが、とりあえずは奈良の観光協会には多少貢献できているとは思いたいものだ。

あとこの仏画は、あとからうちの親が名前を入れときなさいとうるさくて、でもどうしても抵抗感があり、結局裏面に名前を入れておいたのだが、これも考えさせられた。
なんで名前を入れる事に抵抗感が湧くのか、特にこの前世を見てからよく分かった。
名前を入れると、その仏像や仏画は「仏」ではなく作り手の「作品」になってしまうからだ。
ちょっとこれからは、作品として描く時は名前を入れてもいいが、神様を身近に感じるために描きたいと思う時は、名前は入れないようにしようと思った。

ちなみにこのサイト(※旧個人サイト-ゆらとふるへ)に載せてる他の神さんや龍神さんの絵はパソコンで描いている。多分パソコンで描くなんてありがたみが無いと思われそうだが、自分的にはむしろ「我」が入りにくくなる分にはパソコンで描くのも悪くないなと思っている。
そもそも神仏はエネルギーの「記号」的なものとして解釈しており、あんまり人間ぽく描きたくないと言う部分もある。
そう言う意味ではチベット仏教の「タンカ」なんかは仏画とちょっと違って、幾何学的な配置関係が決まっていて仏さんの顔を描くにも定規で正確に描くらしく、それはすごく納得できる。誰が描いても同じ絵になるワケだから描き手は「我」の入れようがない。だからこそ「神仏」そのものをある種の「記号」として表現することが出来、そこに生じるエネルギーを伝えやすくなるのではと思った。

そこからさらに突き詰めると、神社なんかは神さんを祀っていても、その神さんの像を作ったりはしない。ただ「鏡」や「玉」を祀るだけだったりするので、もう人の「我」が入るかどうかなんて関係ない。そう言う意味では、古来の神道の考えが一番無難かもしれない。
気持ちが入ってしまうような対象もないし、祈る人の気持ちも上に行きやすいと言える。
ただその反面、神像が無いから神さんを具体的にイメージするのは難しい。お寺は仏像があり、具体的にイメージしやすい反面、気持ちをその仏像に向けてしまいやすいために、意識が上に行きにくい。

結局の所 どっちがいいかは断言はできないが。まぁどちらにせよ最終的に像ではなく、神仏そのものに意識が向けられるのなら、向けやすい方でイイとは思う。
と言うか、いつの間にか前世とは関係のない何だか無駄にややこしい話になってきている気がするので、イイ加減この辺で終わろうと思う。
次回はまたしても怪しい記憶、邪馬台国の物語だ。

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